『夜を乗り越える』又吉直樹

夜を乗り越える

芸人であり芥川賞作家でもある又吉直樹が、半生を振り返りながら、本を読む理由、文学の魅力を語ります。本の紹介もあって、その紹介がおもしろく、あれこれ購入してしまいました。

芸人、芥川賞作家・又吉直樹 初の新書

芸人で、芥川賞作家の又吉直樹が、
少年期からこれまで読んできた数々の小説を通して、
「なぜ本を読むのか」「文学の何がおもしろいのか」
「人間とは何か」を考える。

また、大ベストセラーとなった芥川賞受賞作『火花』の
創作秘話を初公開するとともに、
自らの著作についてそれぞれの想いを明かしていく。

「負のキャラクター」を演じ続けていた少年が、
文学に出会い、助けられ、
いかに様々な夜を乗り越え生きてきたかを顧みる、
著者初の新書。

又吉直樹の作品はまだ読んでいません。もう少ししたら読むと思います。それでも、文学界への貢献度の高さは、目に入ってきます。本書は、書店をうろうろしていると平積みされていたので、気になって手にとってみました。

第1章と第2章では、6歳の時から現在までの著者の半生を綴っています。小中学生の頃は、求められるキャラクターと本来の自分とのギャップに葛藤があったようです。

中学一年生で芥川龍之介の『トロッコ』に出会います。

「この主人公、めっちゃ頭の中でしゃべっている。俺と一緒ぐらいしゃべっている」

そして、中学二年生で太宰治の『人間失格』との出会い。

『人間失格』は僕にとって、一番頭の中でしゃべっている小説でした。内容もさることながら、頭の中でずっとしゃべっている人達がいる。ずっと考えている人達がいると知れたことが、僕は本当に嬉しかった。僕だけではなかった。みんなひとりで考え、悩み、行動している。

ここから本との付き合いがはじまったんですね。それは、著者に大きな変化をもたらします。

 でも本に出会い、近代文学に出会い、自分と同じ悩みを持つ人間がいることを知りました。それは本当に大きなことでした。
 本を読むことによって、本と話すことによって、僕はようやく他人と、そして自分との付き合い方を知っていったような気がします。

やがて、お笑いへの道を歩み始めるわけですが、『人間失格』とダウンタウンとを同列に語るのは特別な感性のように思います。

お笑いの養成所時代。本を読む。ネタを書く。散歩する。という生活を送っていました。

 当時僕が本に求めていたのは、自身の葛藤や、内面のどうしようもない感情をどう消化していくかということでした。近代文学は、こんなことを思っているのは俺だけだという気持ちを次々と砕いていってくれました。その時、僕が抱えていた悩みや疑問に対して過去にも同じように誰かがぶつかっていて、その小説の中で誰かが回答を出していたり、答えに辿りつかなくとも、その悩みがどのように変化していくのかを小説の中で体験することができました。

18歳の時に初めて小説を書いたそうですが、その時にはうまくいかなかったようです。書けそうで書けないのわかります。その後、吉本興業の広報誌のコラムを書くようになり、これが文章の修行になったようです。ここで、漫才の作り方の変化を綴っているのですが、これをちゃんと文章で説明できるのはすごい。

そして、芝居の脚本を書くようになります。さらに、著者にとって初めての本、せきしろと共著の『カキフライが無いなら来なかった』が出版されます。自由律俳句というジャンルです。以前から気になっていて、何度も手に取った本です。

さらに、『第2図書係補佐』『東京百景』に続いて、いよいよ小説が出ます。小説もお笑いも一緒という著者。R-1ぐらんぷりに出場し、小説のシーン演じることで勝ち進みます。

 文章を書くこと、ジャンルを飛び越えてやりたいことをやるのは、すべて芸人の時間以外でやるようにしています。(中略)一日に十五時間お笑いをやったとして、四時間睡眠にあてたとしても、五時間も自由時間があります。その時間でやれるんです。寝なければもっとできますね。

僕は本来だと、睡眠時間を削る人とは友だちになれないタイプなのですが、この言葉はすっと入ってきました。

『別冊文藝春秋』で自伝的短編小説を書きます。そこから、いよいよ芥川賞受賞作品『火花』です。創作秘話が語られています。経緯、想い、動機。受賞についてはさらっと流していて、それよりも、事件を、(内容についての)議論を起こしたかったのだけど、そうはならなかったことに落胆しています。

それは『火花』が、議論を巻き起こすほどの沸点を持つ作品ではなかっただけのことなんだと思います。僕は新時代の先頭ではなく、残念ながら前時代の最後方なのかもしれません。僕の書いたものに責任があるということです。

熱さ、ひたむきさを感じますね。

 文学というジャンルそのものに、やっぱり力がなくなったのかと思う気持ちもあります。おもしろい小説はたくさんあるのでレベルが下がったとはまったく思いませんが、文学が時代を象徴するものではなくなってしまった可能性はあります。それはやっぱり取り戻して頂きたいですよね。

そうは言っても、先にも書きましたが、著者の文学界での貢献度はすごいと思います。

ここから、なぜ本を読むのかというのを説明しています。

 僕が本を読んでいて、おもしろいなあ、この瞬間だなあと思うのは、普段からなんとなく感じている細かい感覚や自分の中で曖昧模糊(あいまいもこ)としていた感情を、文章で的確に表現された時です。自分の感情の確認。つまり共感です。

それに加えて本の魅力のもうひとつに感覚の発見というものがあると思います。本を読むことによって、これまで自分が持っていなかった新しい感覚が発見できることです。

共感を得る。共感できないものに関しては、新しい感覚の発見。

僕やみなさんが普段使っている道徳や考え方というのは現代の世の中に普及しているシェア率ナンバーワンの洗濯機にすぎないのかもしれません。みんな使っているし、説明書を読まなくてもだいたいわかるし、なじみもあるしということに溺れているだけかもしれません。

ファッション業界の人が本を読んだら、作り出す服にどんな作用がもたらされるのか、といったことを語っています。本が読まれなくなったと言われていますが、著者の本に対して諦めないところが良いですね。

難しい本についても、1回読んでわからなかったら、また戻ってきたらいいと言います。そして、批評家とその関わり方について、「できるだけ自分の価値観で読むことをお薦め」しています。本の読み方は、読者の心がけと次第と言えそうです。

悪意で読む者より、感情に流されずフラットに読む者より、本に対して協力的におもしろく読める者の方が読書を楽しめているという想いはさらに強くなりました。

多様な視点や考え方を持つ必要があるわけですが、読書によってそれは身に付けられます。

 道徳的規範からはみ出した者に対して世間は容赦ないですよね。二択で決着をつけようとしすぎです。二択で決めようとすると善悪ではなく人数が多い方が正義になることが多い。でも、ふたつの選択肢の間で迷いながら、それがどちらでもなく、いったいなんなのかを真剣に考えることも重要ですよね。

純文学や芸術について。

 だけど、「ピカソって本当にすごいの?褒めてるやつらもわかってんの?」と言ってしまう人は、山で熊に遭遇しても「かわいい!」と近寄っていって殺されてしまう恐れがあるのではないかと不安になります。意味はわからなくても、圧倒的な迫力は感じるやろと思うんです。

ここで、太宰治の言葉を引用しています。

 創作に於いて最も当然に努めなければならぬ事は、<正確を期する事>であります。その他には、何もありません。風車が悪魔に見えたときには、ためらわず悪魔の描写をなすべきであります。また風車が、やはり風車以外のものには見えなかった時は、そのまま風車の描写をするのがよい。風車が、実は、風車そのものに見えているのだけれども、それを悪魔のように描写しなければ<芸術的>でないかと思って、さまざま見え透いた工夫をして、ロマンチックを気取っている馬鹿な作家もありますが、あんなのは、一生かかったって何一つ掴めない。小説に於いては、決して芸術的雰囲気をねらっては、いけません。

太宰治『芸術ぎらい』

本を繰り返し読むことの重要性については、僕が今年学んだことのひとつです。

 本はその時の自分の能力でしか読めません。良いように取れば、本はその時にしかできない読み方ができているということになります。

著者は太宰治が好きだと公言しています。人の目を気にせずに、読書を楽しもうという姿勢が潔くて魅力的です。太宰の魅力を、好きだとか嫌いだとか含めて、何かしら感想を持てることだと言います。

 僕は本を楽しく読もうとした結果、感想として好きとか嫌いとか、良かったとか駄目だとか思ったり言ったりすることはすごく重要だと思います。これはこうだから駄目だと言うことによって、考えることによって、自分なりの文学観ができてきます。その対象として太宰はとても適している。

ここで、太宰の短編小説の紹介がされていますが、どれも読んでみたくなるものばかりでした。そこに自身のエピソードを織り交ぜており、太宰や作中の人物への共感がすごいですね。

著者は、太宰優しい説を唱えています。

 太宰は優しいからこそ想像力を持てた。この立場の人間はどう考えるのか。自己批判的な目線も持っています。いろいろな立場に立ってものを考えることができて、それが作品になっているように思います。それは僕の考える文学そのものでした。

太宰の死について思うところを書いています。ここで、本書のタイトルの意味がわかります。

最後は、近代文学と現代文学について、著者と作品の紹介をしています。

近代文学では、芥川龍之介、夏目漱石、谷崎潤一郎、三島由紀夫、織田作之助、上林暁を挙げています。著者にはネガティブな思考が合っていたのかもしれません。

まわりの目を気にせず、好き、おもしろい、笑えるという観点で紹介してくれるので、信頼できる気がしました。その作品のどういうところが好きなのか、自身の同じような状況のエピソードが語られています。

現代文学で、名前が上がっているのが、遠藤周作、古井由吉、町田康、西加奈子、中村文則。

 僕がずっと抱えている一番大きなテーマが「人間とは何か」ということです。「なぜ生まれてきたのか」「なんのために生きているのか」みんな、思春期の頃にある程度決着をつけてきている問題ですが、僕はまだ答えが出せていません。「いつまで考えてんねん」とよく笑われますが、いまだにわからないんです。

著者は、それに対する視点のバリエーションを探しています。

あとがきでは、このように語っています。

 でも小説に期待しすぎるのは嫌なんです。蝶々は人間を喜ばそうと思って飛んでるわけではないし、人間も本来は誰かを喜ばすために生きているわけではありません。
 小説もただそこにあるだけなのかもしれません。小説は娯楽であってもいいし、娯楽じゃなくてもいい。小説に対峙する時は、いつでもただ読みたいのです。

全体を通して、本当に本が好きなのだなというのが伝わってきます。とにかく、他人の目を気にせず楽しく読みたいという気持ちが潔いです。

年末なので、今年読んだ100冊を紹介する記事なんかが出てきていますが、そこは量で勝負するところではないだろうという気がします。また、そういった記事は、ビジネス書や自己啓発書が大部分を占めています。そうではなくて、小説から視点のバリエーションを得る、ということは人生にプラスになると思うのです。

それでいて、楽しむ、という著者の姿勢を見習いたいですね。

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