『蹴りたい背中』綿谷りさ

蹴りたい背中

わからないけど、わかる。いや、やっぱりわからない。高校時代を振り返ってみても、抱いたことのない感情。だけど、わかる。いや、わからない。それは、文章による表現の力なのか、それとも、実は誰しも体験したことがある感情だったのか。

“この、もの哀しく丸まった、無防備な背中を蹴りたい”長谷川初実は、陸上部の高校1年生。ある日、オリチャンというモデルの熱狂的ファンであるにな川から、彼の部屋に招待されるが…クラスの余り者同士の奇妙な関係を描き、文学史上の事件となった127万部のベストセラー。史上最年少19歳での芥川賞受賞作。

当時、文学にはまったく興味がなかったのですが、それでも史上最年少で芥川賞受賞というニュースは見聞きしたのを覚えています。それくらいインパクトのある事件だったんですね。今回、新幹線で監禁されている間に芥川賞受賞作を読むという試みで、本作を手に取りました。(『インストール』はリアルタイムで読んでいました。)

クラスの余り者同士、と言っても、私とにな川ではその感覚が違います。

どうしてそんなに薄まりたがるんだろう。同じ溶液に浸かってぐったり安心して、他人と飽和することは、そんなに心地よいもんなんだろうか。

自分の内側ばっかり見ているから、何も覚えていない。学校にいる間は、頭の中でずっと一人でしゃべっているから、外の世界が遠いんだ。

でもこんなふうに存在を消すために努力しているくせに、存在が完全に消えてしまっているのを確認するのは怖い。

馴染みたくはないけれど、余り者でもいたくない私。一方で、モデルのオリチャンのことしか頭にない、にな川。(著者は、比喩表現が独特ですね。)

クラスの余り者同士の関係と言いつつ、私からにな川への一方的な関係でもあるように思えます。しかし、私と関わりを持とうとするにな川からも関係性の矢印は伸びているのでしょうか。最初は、オリチャンと接触した私に対するアプローチでしたが、それから行動を共にするのは、どういう想いからなのでしょうか。

私からにな川への想いは、恋愛感情とは違っているように見えますが、そういう要素もあるのかないのか。そんな、なんとも表現しづらい感情が「背中を蹴りたい」という衝動として表現されています。

この、もの哀しく丸まった、無防備な背中を蹴りたい。痛がるにな川を見たい。いきなり咲いたまっさらな欲望は、閃光のようで、一瞬目が眩んだ。

ぞっとした。好き、という言葉と、今自分がにな川に対して抱いている感情との落差にぞっとした。

これがどういう感情なのか、僕にはわかりませんでした。その、わからないと言ってる感情が、なんとなくわかる。いや、わからない。それが、本作のすごいところなのだと思います。

よく考えると、この時期ですから、本人にもよくわからない感情で、説明ができないはずです。だからこそ、もどかしさを感じるのだと思います。なんかわからないけど、わかる。いや、わからん。

同じ景色を見ながらも、きっと、私と彼は全く別のことを考えている。こんなにきれいに、空が、空気が青く染められている場所に一緒にいるのに、全然分かり合えていないんだ。

私とにな川では、余り者としてのスタンスに対比があります。余り者同士でなければ、あるいは、余り者同士のスタンスが一緒であれば、私はこんな感情を抱かなかったのだろうという気もします。

いろいろと解釈をする余地のある作品なのでしょうか。一度じっくり読んで欲しい1冊です。物語だけではなくて、表現手法も楽しめると思います。

コメント

  1. […] […]

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