『人間失格』太宰治

人間失格

読んだことはなくてもタイトルは知っている。太宰治の「人間失格」僕は内容すら知らなかったのですが、とあるきっかけで読んでみることにしました。70年前の小説にもかかわらず、生々しさが感じられて、あぁ、人間というのは変わらないのだなと思いました。でも、人間って何?

「無頼派」「新戯作派」の破滅型作家を代表する昭和初期の小説家、太宰治の長編小説。初出は「展望」[1948(昭和23)年]。自分の幸福の観念と世の中のそれが、まるでくい違っているような不安に悩む大庭葉蔵の半生を自意識過剰に描いた、太宰文学随一の傑作。臼井吉見が言うように、太宰文学の「最高のかたち」の「遺書」であるとともに、日本近代文学を代表する作品。

最近では、ここ6年くらいの疲れが溜まっていて、時折、気分が沈むような日々を送っています。そこに、悲しい出来事が起こりました。こういう時には無理に元気を出すよりも、もっと深い気分の底に落ちていくような体験をしたくなるものです。

そこで、そういう本を読みたいとオーダーしたところ、古屋兎丸によるマンガ「人間失格」をおすすめされました。こちらはまた別の記事にしたいと思いますが、せっかくなので原作も読んでみようと、先に原作を読み始めました。

小説家である著者が大庭葉蔵の3つの手記を手に入れて、それを公開するという形をとっています。そのスタイルにより、あたかも葉蔵が実在したかのようなリアリティを感じます。手記も、記憶が曖昧な部分があったり、なんともリアルで、読者は実在した人物として葉蔵の人生を追っていくことになります。

第一の手記の書き出しは、有名なこの文。

恥の多い生涯を送ってきました。

幼年時代を振り返った手記となっています。人とまったく違う感覚を持っており、まともに人と接することができない。そこで、道化を演じるようになります。この、外の自分と内の自分が一致しない感覚は、学生時代に統合失調症を患っていたころの感覚を思い出させます。

第二の手記では、破滅への道のりが描かれています。

自分は、やがて画塾で、或る画学生から、酒と煙草と淫売婦と質屋と左翼思想とを知らされました。妙な取合せでしたが、しかし、それは事実でした。

そして、とある女性と心中未遂事件を起こします。小説のような話なのですが、事実、小説なのですが、しかし、本当に大庭葉蔵という人物が書いた手記であるように感じられます。完全にこの世界にハマってますね。

第三の手記が一番長くて、本書の半分くらいを占めています。そして、この手記だけ、2つのパートに分かれています。

シングルマザーの家に転がり込んだ葉蔵ですが、次第に酒の量が増えていきます。最終的にこの家を出ていくのですが、その時の様子が印象的です。

(幸福なんだ、この人たちは。自分という馬鹿者が、この二人のあいだにはいって、いまに二人を滅茶苦茶にするのだ。つつましい幸福。いい親子。幸福を、ああ、もし神様が、自分のような者の祈りでも聞いてくれるなら、いちどだけ、生涯にいちどだけでいい、祈る)

葉蔵が神に祈るのは、後にも先にもこの時だけですし、他者の幸福を祈るというのもこの場面以外にはありません。堕ちていくのも人間らしいと言えますが、自分以外の人の幸福を祈るのも人間らしい。あれ?人間らしさって、何だっけ。

その後、とある女性と結婚し、一時の幸福を得ます。もちろん、彼の人生において、長く続く幸福というの存在しないわけで。葉蔵は、その女性を「信頼の天才」と言い、それが彼の拠り所だったのだと思います。ところが、その信頼ゆえに、悲惨な出来事が起こるのです。

嗚呼、信頼は罪なりや?

果たして、無垢の信頼心は、罪の源泉なりや。

無垢の信頼心は、罪なりや。

苦悩した葉蔵は、再び破滅への道を歩みます。

ネタバレを避けるために(避け切れていないですが)、かなり端折って話を追っています。出来事だけを追っても、この世界には入り込めないので、ぜひ全文を読んでみてください。葉蔵の人生とその時々の心理をトレースすると、気分が落ちていく体験ができます。文章の力がすごい。

第三の手記の最後の方で、「人間失格」というフレーズが登場します。

そうしてここに連れて来られて、狂人という事になりました。いまに、ここから出ても、自分はやっぱり狂人、いや、癈人という刻印を額に打たれる事でしょう。

人間、失格。

もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。

ここで、第一の手記が効いてくると思うのです。幼年時代にすでに、自分を「人間」とは区別して捉えています。「自分」はずっと「人間」ではなかった。しかし、ここまで読んできた読者としては、あれ?「人間」って何だっけ?と考えます。僕らは、ここまで人間の物語を読んできたのではないか。そして、葉蔵を人間失格に追い込んだ人たちがいるわけで、彼らは「人間」なのでしょうか?

葉蔵の人生は、差し出されたものを拒まない人生でした。それは、そもそも破滅的な思考傾向があったというのもありますし、何かにすがらなければ生きていけないというのもあったでしょう。その思考傾向ゆえに破滅への道を歩み、その苦しみから逃れるために何かにすがり、それがまた破滅を呼ぶ。そのような負の連鎖があったように思います。

流されれば、自分も葉蔵のような人生を送る事になる。その危うさが、この物語にリアリティを持たせているのではないでしょうか。どこかしら共感するところがあれば、他人事としては読むことはできません。ですから、これをいつ読むのかというのは、重要だと言えます。

劇薬ですから、元気な時に読んだ方がいいという人もいるでしょう。今回の僕のように、気分が落ちている時に、あえて、さらに落としていくという考え方もあります。心が不調だった学生時代に読んでいたら、かなり引きずられていたことでしょう。

これだけのものを書く太宰治というのは、とんでもない人物だとWikipediaをのぞいてみると、ああ、やはりこのような人物だからこそ書けたのだと納得します。リアリティどころか、実話だと思うと、さらに気分も落ちますね。「人間失格」を読んでから、Wikipediaで「太宰治」を調べるコース。おすすめです。

文学作品というのは、読む人によって様々な解釈があると思います。読むタイミングによっても、そうですね。僕は、気分が落ちているこのタイミングで読んで良かったと思います。折に触れて読み返す作品になりそうです。

現代版&マンガ版は、こちら。

コメント

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