『新釈 走れメロス 他四篇』森見登美彦

新釈 走れメロス 他四篇

さて、困った。というのも、次に読み終えた本の感想をブログに書こう、と決めていたからです。森見登美彦の「新釈 走れメロス 他四篇」。何とも感想の書きにくい本を読み終えてしまいました。

芽野史郎は激怒した―大学内の暴君に反抗し、世にも破廉恥な桃色ブリーフの刑に瀕した芽野は、全力で京都を疾走していた。そう、人質となってくれた無二の親友を見捨てるために!(「走れメロス」)。最強の矜持を持った、孤高の自称天才が歩む前代未聞の運命とは?(「山月記」)。近代文学の傑作五篇が、森見登美彦によって現代京都に華麗なる転生をとげる!こじらせすぎた青年達の、阿呆らしくも気高い生き様をとくと見よ!

原作があって、それを元とした作品が5篇。ベースとなる原作があるわけですし、文体もそれぞれの作品に合わせて書かれています。つまり、著者自身の作風というのを感じるのは難しくて、「最初に読む森見作品がこれか…」と言われる始末。短編集だから読みやすいかと思えば、読書感想文の課題図書としては、なかなか難解なものを選んでしまいました。

とは言え、その中でも、「走れメロス」は分かりやすい。国語の教科書に載っていた原作も頭の中に残っています。これは、面白おかしい系に振りきったパロディ(パロディの定義については深入りしないとして)ですね。原作の「勢い」を表現した作品だと思います。

しかし、今回はあえて、別の作品を取り上げます。原作を読んでみたいと思った「桜の森の満開の下」です。作家志望の学生が、とある女性と出会い〜という話です。ラブストーリではないですよ。彼の人生とは一体…。そして、桜の森の満開の下の「怖さ」の正体とは。

坂口安吾の原作を読んでみました。青空文庫に入っていて、無料で読むことができます。僕は文学にまったく触れてこなかったのですが、昔の本であるにも関わらず、読みやすいんですね。

驚いたのが、桜の花の下の「怖さ」の正体を、割と直接的な言葉で表現しているんですね。そこで、森見登美彦に戻ってみると、確かに「それ」を表現しようとするシーンや描写がある。一方で、原作では印象的に表現されているけれども、新釈では控えめになっているものがあります。それは、狂気。

「美しさ」と「狂気」は、表裏一体なところがあります。坂口安吾は、それをビジュアルで見せているんですね。小説なのに、ビジュアル。僕は、この手の作品が好みであることを自覚しています。なんとも解釈しづらい作品だけれども、ビジュアルが良い。映画であれば、これに音楽が加わります。

具体的な映画を挙げると、だいぶ拗らせている感じがあるのですが…「リリイ・シュシュのすべて」や「CASSHERN」など。まあ、「CASSHERN」は主張がはっきりしていて解釈はしやすいのですが。ビジュアルと音楽と、そして拗らせた感じ。この辺が好きなんです。

坂口安吾の「桜の森の満開の下」は、それに通じる何かがあるな、と感じるわけです。拗らせてはいないと思いますが。一方で、森見バージョンは、そこを重要視していない。あくまで、内容勝負。男の心理にフォーカスしている印象を受けます。原作のどこを重要視するかというのは、新釈を書く側に寄るところが大きいのです。

百人の人間が書き直せば、太宰治の「走れメロス」を中心にして、百人のメロスが百通りの方角へ駆け出すだろう。

著者はあとがきで、このように述べています。さらに続けて。

逆に言えば、時を隔ててもそういう読まれ方に耐え得る小説が「名作」と呼ばれるらしい。だから名作というものは恐ろしいものだ。

普通の人が「書き直す」ことまではしないまでも、自分ならではの解釈をする。それができるのが、名作だと言えるのでしょう。昨今、巷に溢れるパターン化した物語、「ここが泣くポイントですよ」「ここでどんでん返しが来ますよ」と分かりやすい物語。情報過多の時代ですので、それはそれで価値があると、否定はしません。ただ、こんな状況ではありますが、空気を読まずに「名作」を生み出す作家が出てくることを望んでいます。

(実際、今の時代でも、そういう作家は存在するのですが、その人たちがちゃんと食べていけるということが大切です。話がそれるので、それはまた別の機会に)

(最後、本の感想じゃなくなった!)

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